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鼻 芥川龍之介

 鼻の冒頭はこう始まっている。「禅智内供の鼻といえば、池の尾で知らぬものはない」。それくらい有名な僧侶だったわけだ。しかしながら、内供というのがいったい僧侶の中でどのような役職なのか分からなかったので調べてみると、宮中の内道場に奉仕して帝の健康などを祈る読経などをするのがその役目だそうなので、僧侶としてはまずまず高位の人間のようだ。しかし彼には悩みがある。鼻が長いのだ。長さが五六寸あるというのだから、15センチ以上長い鼻だということになる。


 ふつうの人間なら悩んでも仕方あるまいし、悩んでいるんだということを誰はばからず言うことができるかもしれない。しかし禅智内供は僧侶である。それ相応の修行をして僧侶になったわけだから、たかが鼻ごときのことで愚痴をもらすわけにもいかない。しかし、そういう禅智内供の心情を逆手にとっておもしろがっている人間がいる。一般人もそうであるし、弟子もそうだ。


 これが禅智内供ではなく、関白や帝といった、文字通り雲の上の存在ならば多分笑うこともないだろうし、おもしろがることもなかったと思う。なまじ俗世でも有名な僧侶だったからこそ、それは身近な存在になり、嘲笑の的になってしまったのだ。


 いかにも鼻を気にしているそぶりを見せることは、僧侶としての自尊心が許さなかっただろうから、禅智内供は自分の長い鼻を気にしないふりをした。本当はものすごく気にしているのである。ものすごく気にしていればきっとまたそれはそれで「あの方は僧侶の身でありながら、そのような些細なことで悩んでいる」と言われたであろう。しかしとにかく彼は気にしないふりをしていたのである。


 昔も今もあまりかわりのないようで、人間というのはどうも他人のことを気にしやすい。禅智内供もそうであるが、逆を返せば禅智内供の周囲にいる人たちも同じである。禅智内供が鼻を気にしていれば、最初は哀れむかもしれないが、そのうちやはり嘲笑することになったのではないか。かといって、本書のように鼻を気にしないふりをすれば、またそれはそれで、「あの人は無理をして気にしないようにしている」だの「本当はものすごく気にしているに違いない」という周囲の人間の勝手な推測によって笑われることになる。そんな禅智内供が、鼻を小さくする方法を試してみたのは仕方ないことだと思う。


 自尊心があるから、自分からすすんで弟子のすすめる「鼻を短くする方法」を試してみようとはしなかったが、そのあたりは弟子も心得たもので、禅智内供の自尊心を傷つけないようにこの方法に応じさせる。この鼻を短くする方法はかなり単純な書き方がされているので、原典ではどのように書かれているのかと思い読んでみると、今昔物語にはもっとこまかく描写がされている。しかもその描写が非常に細部まで観察的であるのでびっくりした。禅智内供は方法はともあれ、なんとか短い鼻を手に入れることはできたわけだ。


 もう笑うものはいないだろうと思うのも無理はないと思う。今までは鼻が尋常に長かったせいで笑われてきたのだし、自分もそれを気にしていた。しかし、人並みのふつうの鼻になったのだから、笑うものがいなくなり、自分も鼻のことを気にしないようになると思うのは普通だ。それなのに、周囲の人々は笑い続けた。それもあからさまに笑うようになった。


 なぜなのか。もう禅智内供の鼻に笑う要素はないはずなのだ。それなのに周囲の人々は笑う。笑われるから禅智内供もまた鼻を気になり出し、イライラして周りのものに当たり散らす。禅智内供の心が狭いといってしまえばそれまでなのだろうが、結局人間は他者との関わりの中で自分という存在の位置をきめるのかもしれないと思った。


 周囲の人間にしてみれば、禅智内供のような偉い僧侶の鼻が長いということがおかしかったわけであって、それを馬鹿にしていたわけだ。これがもっと身近な人間やとるに足りない人間の鼻が長かったところで、それほど興味は持つまい。興味を持ったとしても、「笑っては悪いな」とか「本人も相当気にしているのだから、こちらもなるべく気にしていない風にふるまおう」という気持ちが働くのではないだろうか。


 偉い人間が悩んでいるのが面白いのだ。だから陰で笑うのだろう。明日は我が身かもしれないけれど、とりあえず、今の自分は鼻が五六寸も長いわけではないし、禅智内供のように偉い僧侶ではないけれど、鼻が長いよりはましだ、と勝手に自分と相手の立場を比較して、なんとか自分の方が優位であるということを確かめたがっているのが、内供の鼻を笑い続ける人の心だ。そして、内供はそのような周囲の人々に翻弄されてしまう。


 禅智内供は周囲の人々の自分勝手さ、利己的さに気づいたからこそ不機嫌になり、ひいてはせっかく短くなった鼻までも恨んだのかもしれない。ただ、自分勝手さ利己的さという面では、彼もあまり周囲の人々と変わらない気がする。自分のよいと思ったものを皆が認めてくれなければ不機嫌になってしまうという行動はそれを表している。


 ある夜のこと、鼻がむくみ、どうも熱をもって感じられたとき、禅智内供が「無理にしたから、病気になったのかもしれない」と思ったのは無理もないかもしれない。しかしそれは病気になったわけではなくて、もとの長い鼻に戻る前兆だった。


 結局数日間だけの短い鼻は、もとの長い鼻に戻る。再び長くなった鼻に内供は安心し、晴れ晴れとした気分になる。そして、鼻が長くなったのだからもう笑うものはいないに違いないと安堵する。


 そこで物語は終わっているが、多分禅智内供は笑われ続けられたに違いない。短かった鼻が長くなったことで、人々はそれを気の毒だと思うかもしれないが、自業自得だとかやっぱり長過ぎる鼻は変だとか、なんやかやと再び話し始めるだろう。そして笑い続けるだろう。それを見て禅智内供は再び悩み、鼻を短くしたいと思うかもしれない。


 結局のところ、自分を取り巻く人間関係の中で、自分の存在を確固としたものとしていない人間は他人に振り回されてしまう。禅智内供がそのいい例だ。逆に自分の中に一本筋の通った信念のようなものがあれば、人間の利己的さに振り回されることもなく、自分も利己的になることはないのではないか。最後の文をじっとながめながら、そんなことがいつしか私の心の中に思い浮かんでいた。

読書感想文の書き方

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