李陵・山月記

あらすじ
時は前漢武帝の時代。漢は匈奴征伐に力を注いでいた。
そんなとき、匈奴征伐にかり出されたのが李陵将軍である。
李陵は5000人の歩兵部隊を率いて匈奴に攻め入った。しかし騎馬隊を主力とする10万の匈奴兵の前に、部隊の半分を失い、自分の矢も尽きてしまう。その結果、李陵は降伏することを余儀なくされる。
匈奴に捕虜として迎えられた李陵は、匈奴の単于(匈奴の王の称号)に手厚く庇護される。
単于は李陵に兵法などいろいろなことをたずねる。李陵はそれに答えるが、漢との戦いには決して加わらなかった。そして、漢に関することを李陵にたずねることを単于もやめた。しかし、待遇はよいままである。
あるとき、匈奴との戦いから帰った兵のだれかが、「匈奴があんなに強いのは、李将軍が匈奴の兵の訓練をしているからだ」と言い出す。
それを聞いて怒ったのは武帝である。
李陵がそのような人間ではないと庇護したために、司馬遷は宮刑に処せられてしまう。
結局武帝は李陵の一族を皆殺しにしてしまった。
李陵は漢との戦いには決して出なかったが、同じ李という姓のものがやはり降伏しており、その人間と李陵は間違われたのだ。
李陵は今までのさまざまの一族に対する皇帝の仕打ちを思い出し、かつ今となっては一族は皆殺しにされてしまい、帰国する意思をなくしてしまう。
最終的に李陵は匈奴の単于に仕え、その姫を妻とし子もなすことになる。
李陵が匈奴に降伏するより前に李陵と同じ漢の臣であった蘇武はとらわれの身になっていた。
しかし、蘇武は単于のどのような誘いにも屈することなく、奥地で羊飼いとして暮らしていた。
その話は李陵も知っていた。李陵と蘇武は20年来の友人で同じ役職もつとめたことがあったのだ。しかし、蘇武に会いに行こうとは思わなかった。
あるとき、蘇武の消息が知れなくなった。単于は李陵に蘇武の安否を確かめに行ってほしいと言う。そういう運びで李陵は蘇武に会いに行く。
そのとき、蘇武は羊を追いはぎに奪われ見るも悲惨な生活をしていた。
食料がないため、凍った大地から野ネズミを掘り出して食べているような状態だった。それでも匈奴に降伏しようという意思はなかった。
数年後、武帝は崩御し、次の皇帝には昭帝が立てられた。
昭帝は匈奴との和解を望んでそのための使節を送ってきた。
蘇武が匈奴にとらわれてから20年がすぎていた。
蘇武を送るための宴で李陵は詩を歌いながら、涙を流す。
漢からの使者は李陵に帰国をすすめるが、李陵はことわる。
武帝に宮刑に処せられた司馬遷は、そのショックから一時は生ける屍と化したが、父から継いだ史書の編纂という目的のために歴史家として立ち直る。
そうやって完成されたのが中国初の正史「史記」である。
蘇武と分かれた李陵の記録は何一つ残されていない。
ただ、元平元年に胡地で死んだということ以外は。
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読書感想文を書く際のポイント
李陵という作品には三人の人間が登場します。
李陵と蘇武と司馬遷です。
李陵は匈奴征伐の際、矢が尽き心ならずも匈奴に降伏します。
その後、一族が武帝により皆殺しにされたとしり、帰国する意思をなくし匈奴の地に残ることを選びます。
蘇武はどのような単于の誘いにものらず、奥地で羊を飼いながら20年という悲惨な年月を武帝に対する忠誠心をもって過ごしていました。
司馬遷は李陵とその一家をかばったために宮刑に処せられながら、最後には「史記」という中国最初の正史を完成させました。
この作品には三人三様の生き方が書かれていますが、そのどれもが強靭な意思によって支えられたものであることを忘れてはいけないでしょう。
匈奴に残った李陵であっても、それは李陵にとってはさまざまな苦難を超えての決意だったのであり、蘇武のように武帝に対する忠誠心を持ち続けなかったから、李陵は意思が弱かったという単純な次元の話ではありません。
また、知人をかばったばかりに宮刑という屈辱的な極刑に処せられながらも、一大歴史書「史記」を書き上げた司馬遷にも強靭な意思があります。
これら三人について、そのあたりをいかに読み取るかが読書感想文を書く上での課題もしくは中核になると思われます。
